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花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや

 この歌の作者はどんな想いで春を待っていたのでしょうか。まだ早い春、雪の間から顔をのぞかせたのは福寿草でしょうか。それとも名も無い草でしょうか。さぞ眩しかったことでしょう。待っていた人は、春を見つけていったいどうしたのでしょうか。

 活け花を習っていた時に、先生から教えて戴いたことで、良く思い出す言葉があります。
「せっかく生きているものを切ってしまうのだから、生きている時よりもきれいに見せてあげなければ花がかわいそうです。」
 
 花を活けると言う行為は、フェイクを作ることでもあると考えています。野にある筈のものが室内にあるのですから、普通に考えれば、それは不自然なことです。でも、室内にある。では、なぜ室内にあるのか。何だか 堂堂巡りのようですが、そこに花を活ける理由があるような気がします。
 生け花の源流は、中国にあるのだそうです。仏様に供えられた花を供花と呼びますが、この供花には様式がありました。遣隋使として、たびたび隋に渡った小野妹子が、その様式美に感銘を受けて持ち帰り、後に「池の坊」を拓いたとされています。その辺の話はさておき、仏様にお供えするよりも以前に、ただ「きれいだから」と言う純粋な気持ちで身近に花を飾った人もいたのではないかと思うのです。それを活け花と呼んで良いかどうかは別として。

 どこの店でも、たいがい花が目に付きます。それも目的の見えない花が多いと思います。あってあたりまえのようにただあるのですね。これなら、花が無くても変わりがないのではないかと思うことがあります。まるで習慣のようにただ花がある。見せたい人がある。季節だから。殺風景だから。理由は何でも良いと思います。理由も無く、しかも元気の無い花を見てしまうと、何だかこちらも元気がなくなります。人が違えば活け方も違う。上手下手もあります。せめて花の生命が生かされている、と感じられるならば良いと思うのですが、そういう花を活ける人は少ないようです。

 自分が花を活ける時は、特に様式といったものを考えずに活けます。さんざん稽古を積んでおきながらなんですが、季節のことだけを考えるようにしています。庭から、或いは裏山から「切ってきました」と言うくらいの気持ちでざっくりと活けます。大体、一種類です。まれに二、三種類入れることもありますが。花器は竹篭です。一年中、同じです。本当は季節ごとに変えると良いのですが、店と活けたい花に合う、気に入った花器がなかなか見つからないのです。難しく考えている訳でもないのですが、丁度の所というのはなかなか見つからないものですね。実は自分でも良く解らないのです。しかも、日常の食事をお出しする店の空気に合うような花器ですからあんまり値が張るのもどうかな、と思っているのです。桜は大きく活けたかったので、これは花屋さんから借りましたが、そういうことでもない限り一年中同じなのです。

 そういえば、花を買う時に、和花が少なくなったと感じます。日本の四季を彩る花が少ないのです。置いている花の、九割がた洋花ではないでしょうか。花屋の店内の彩りは目に鮮やかで良いのですが、少しばかり淋しい気がします。本当に、自分で取って来た花を活ける。いつかはそうしたいものだと思っています。