実家の庭に植えてある山椒の木は、丈が2メートルを越す。

一番高いところにある若い枝には、手を伸ばしても届かない。


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自分が小学校5年生の時、庭付きの戸建に移ったのだけれど

そのとき母が近くの山から採ってきて、庭に植えたのだと記憶している。

だから、この山椒の木の樹齢はそろそろ40年になるということか。

当時の自分の胸の高さにも届かぬような、ひょろりとした木であった。

その若い山椒の枝から若芽を摘んでは

朝の味噌汁の彩りにしていたことを思い出す。



夏の朝の、まだ薄暗い台所と、窓から差し込む日の光との明暗の加減。

台所に立っている母の後姿と味噌汁の匂い。

タンタンと包丁の音がして、それからぱっと広がる山椒の香り。

そんなおぼろげな記憶のいろいろと

庭の隅っこのひょろりとした山椒の木の姿は

30数年経ったいまでも、自分の頭の中で一つに繋がっている。



10年ほど前だっただろうか、実家のあった土地が

市の道路計画に引っかかっているということで、現在の場所に引越しをした。

その頃は仕事が忙しくてまったく帰れなかったので詳しくは知らないが

件の山椒の木は、自分の知らぬところで2度目の引越しを経験していた。



いま現在は、道路と敷地を隔てるフェンスと倉庫との間の

ちょっとした露地に植えてあるのだけれど、もう一杯いっぱいで、

枝の成長をフェンスに遮られるような格好になってしまっている。

だから山椒の若芽にしても実にしても、

これらを摘むときは、身を捩るようにして採らねばならない。

たくさんの量を摘む時には、木の下に潜って枝と枝の隙間を狙って手を伸ばす。

出来るだけ実だけを採ろうとするのだけれど、

視界が悪いのと、姿勢がきついのとで、なかなか思うようには採れない。

特に下のほうの枝には硬くて鋭い棘がたくさんついているので

うっかりしていると、手が傷だらけになる。



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それでも30分ほどがんばれば、両手のひら一杯くらいになる。

山椒の実は、10数粒が花梗で連なりながら一まとまりになっている。

若い枝を傷めないように、この粒の集まりだけを採ろうとするのだけれど

先に述べたような無理な姿勢で採るものだから、

どうしても余分な葉まで採ることになってしまう。


実家の山椒の実は、4月の終わり頃から生り始める。

まだ小さめの実を摘みながら、その香りにつられてひょいと口に入れる。

「山椒は小粒でもピリリと辛い」とは良く言ったもので

口内の香りが失せたあとまでも、舌が痺れているほどだ。



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4月の終わり頃は指の腹で押す程度でも実が潰れたが

5月半ばを過ぎると爪で押さねば潰れぬようになる。

初夏の日差しを浴びて、そろそろ皮が硬くなり始めている。

煮炊きに使うには、このあたりが限度。



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まずは、入り混じった葉を取り除くところから。

これがなかなかの手間である。

ちょうど涼しくなり始めた梅雨入前の夕方。

ビールを飲みながら、というのがごく自然だろうと思うのは勝手な言い草か。


仕分けに使っているのは植木鉢の皿と豆腐のパック。

来年はもう少し使いやすい道具を探そうと思っている。



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取り除いた葉は、ひょいひょいと下に落とす。

時おり吹く夕方の風に煽られて、足許の葉が少しづつどこかへ消える。

田舎では、有機物がごく自然に循環している。

山椒の葉も、なにをせずとも放っておけば、やがて土に還るだろう。


自転車に乗った女子生徒が数名、家の前の坂道を下っていく。

2?3人が歌いあっている。

笑い声が聞こえる。

下校時間にしては少し遅いくらい。

部活の帰りかもしれない。

さて、あれはなんという歌だったか。

確かに歌った覚えのある曲だが、どうも思い出せない。


心地の良い時間がゆるゆると過ぎていく。



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葉を取り除いたら、次ぎは花梗を取る。

ぽろぽろとした実だけにする。

実が小さい上に花梗が細くて短いから、自分の指に余る。

なかなか大変な作業だ。

次第にビールを口に運ぶ回数が減る。



もし、子どもがいたら手伝わせることだろう。

子どもの細い指先であれば、この仕事は容易いに違いない。

そして、その日学校であったことなどを尋ねようか。

それとも、この山椒で作る料理のことでも聞かせようか。

この山椒の木が、まだ胸の高さくらいだった時のことを話したら

どんな返事が返ってくるのだろうか。


どうやら山椒の香りに酔ったらしい。


いつのまにか辺りが薄暗くなっていた。

隣の田圃では蛙が鳴いている。

初夏の夜の始まりは、思いのほかゆっくりだ。