食べるということは、命を繋ぐための行為である。

しかし、食べることによって命を縮める人が多いという昨今。

それを寿命と言ってしまえばそこまでだが

我々はこの食生活の乱れを「社会現象」として

しっかり捉える必要があるのではないだろうか。


割主烹従。

料理は材料を切って食すことが主。

煮炊きするのはその次の策。

「素材が命」ということを表す言葉である。


人は

生々しい食材(生であることが望ましい)を口に入れた時

どんなことを感じるのだろうか。

その瑞々しい細胞を噛み砕いて、繊維をしごいて

舌の上で、口内の全ての粘膜で、その個体を味わう時

いったい何を思うのだろうか。


命のあったものが細胞の壁を失って、粘液の様に、どろどろになる。

その、ねっとりとして活きの良い感触は、まるで人間の内側のようだ。

調味料ではなく、素材そのものの感触を得たとき

自分は食物と交わっているのだと知る。


だから愛しい人の耳たぶを食むように

その艶めかしい肌に手を這わすように

五感の全てでもって感じたいと欲する。

心ゆくまで味わいつくし、その余韻に浸りたいと願う。


生きるということは、他の命を屠ることなのだ。

自身の命の糧とするために

他の命を、噛んで、砕いて、すり潰して、我がものとする行為だ。

こんなことを、愛なくして、どうして行えよう。


獣ならば許されるだろう。

他の命を奪って、屠って、我がものにして生きることを。

しかし、我々は人間だから、欲のみにあらず。


調理を尽くす、という手向け。

味わう、という礼儀。

感謝する、という心。

常々忘れずにいたい、と願う。


食べるということ。

それは、今日の命を明日へ繋ぐということである。

人の想いを明日に繋ぐということである。